いくぞうゴロゴロ

「やってやれないことって、ないと思うんだよね」というかっこよい親友の言葉に感化され、超ポジティブ人間になろうと思ったけど、自由時間がとれなくてやや育児ノイローゼ気味な20代後半子持ちポエマー。

幸せな日

 

昨日は、こたつに入りながら焼きたての焼き芋を食べた。

安納芋はつゆが滴る甘さ!

 

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今日は、夫が時間休をくれた。

特に記念日でも、用事があったわけでもなく、突然のことだった。

「ゆっくりしてきてよいよ」

「遅くなってよいよ」

 

一切の文句を言わず、子どもと留守番してくれた。

 

私は、休みの友達を捕まえて流行りの映画を見た。

何度となく出かけた場所だけれども、こんなに貴重な時間と思えたのは初めてだった。

 

「いつも大変だったね、すごいなぁ、ありがとう」

 

映画の内容も良かったけど、夫がかけてくれた言葉を、忘れないで行こうと思った。

花無心招蝶 蝶無心尋花

 

この世は全て必然。

 

昔好んでいたまんがに登場していた考え方。

 

今でも、何事にも意味があり、無駄なことなんてないと思っている。

 

でも最近は、何事にも意味を考えすぎて少し疲れ気味だった。

 

そんな今日、出会った禅語。

 

花無心にして蝶を招き、蝶は無心にして花を尋ぬ。

 

花は蝶のために咲くのではなく、蝶も花のために尋ねるわけではないけれど、お互いを支え合っている。

 

頭がふっと、軽くなったように思う。

座右の銘にしようと思う。

 

一瞬が重なって、一生になる。

 

てがみ

 

よく、手紙を書いていた。

 

幼稚園から高校までは手渡しで、

大学時代は郵送でやりとりをした。

 

メモの切れ端だったり、小さなプレゼントを添えたり。

 

掃除をしたら、手紙がたくさんでてきた。

 

メールは便利だけれども、

手紙を書いていると、相手へ伝えたいことがたくさん浮かんでくるから好きだ。

 

普段気づかなかった感謝の気持ち、一緒に行きたいところとか。

 

便箋選びも楽しい。

 

昔ほど雑貨を集めなくなったが、ペーパーアイテムはつい、手に取ってしまう。

 

 

今日は久しぶりに友人から手紙が届いた。

 

高校時代から変わらない書体に、日々何かに追われている自分の心が和んだ。

 

一呼吸おいて、気持ちを整理しよう。

 

さて、どんな返事を書こうかな。

成功を反省する

 

最近心に響いた言葉。

 

 

「失敗を反省する」

という言葉は、中学生くらいからよく使ってきた気がする。

 

 

成功した時に、なぜ成功したかを振り返らないと、次の成功に活かせないという。

 

なにより、失敗を反省していると、失敗したことばかり思い出されて、自分のやってきたことは失敗ばかりだったと思ってしまうという。

 

 

なるほど、「成功体験」を忘れてしまうことは、自信も育まれない。

 

自分に対してマイナス思考になる。

 

なるほど〜。

こうしてみると、私も失敗ばかり思い出されて、成功したことなんてあったのかと思ってしまう。

 

まずは失敗にとらわれすぎないで、

小さな成功を見つけていきたい。

 

昨日の成功は…

うーん…

 

考えすぎた時に、外に出て散歩をしたら気分がよくなったこと。

考えるのをやめられた。

イメージ

 

 

週末に、チャリティー番組を見た。

 

思えば、あまりテレビを見ない環境で育ったことと、そもそもこの番組になんとなく違和感を感じていたため、ちゃんと見たことがなかった。

 

しかし、実際に見ると感動して泣いて、なんとなく前向きな気持ちになれた。

 

 

次の日、同じ時間帯で「障がい者=感動」のイメージを売り物にするな、という番組があったことを知る。

 

youtubeで見たら、衝撃を覚えた。

 

あのチャリティー番組には

過去の栄光→悲劇→周りの支え→努力→前向きに生きていく

というパターンがあり、

障がい者は「努力の人」といったイメージが、自分の心の中に植えつけられていた。これは、番組により作られた障がい者像だったと気づいた。 

 

そして、「健常者が自分より大変な人を見て『自分はマシだ』と思える番組」ではないかと言われると、前から持っていた違和感の正体は、これだった。

 

番組を見て感動し、前向きになった自分の心に、障がい者を見下した気持ちがあった。(みんながみんな、そうではないと思うが)

少し悲しかったけれども、とても理解できた。

 

そういう風な「イメージ」を、メディアから植えつけられていた。

 

これは「障がい者」だけではないと思う。

 

「こども」「女性」「男性」

「若者」「高齢者」「外国人」

 

人を表す表現には、なにかしらの「イメージ」が、植えつけられているのではないだろうか。

 

そう考えると、自分が今まで持っていた常識ってやつは、誰かに都合よく作られたものなのかもしれない。